HISTORY
麩太の沿革
江戸時代後期・享和年間に祇園町で麩づくりを始めてから今日まで。株仲間の時代、幕末維新の激動、戦中戦後の苦難を経て、八代にわたり受け継がれてきた麩太二百余年の歩みをご紹介します。
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創 業
祇園町北側/知恩院山門脇という、往古より「吉水(よしみず)」と称えられた清浄で良質な水脈を擁し、「○麩 處々造之然西洞院東四條通河棚(河岸段丘)之製造爲勝」(貞享三(1683)年『雍州府志』巻六.土産門上)と評された立地に着目した初代松屋太兵衛(1782~1856)により、江戸時代後期享和年間(1801~04年)頃から「麩」の製造を開始した模様である。この地では東山からの水流を動力とする水車を用いた製粉段階から、「生取り(麪筋=グルテン/麩素精製)」後の製麩工程、「漿粉」や「沈」と呼ばれる澱粉採取に至るまで一貫生産が可能であった。続いて文化十(1813)年閏十一月には公許の株仲間、「麩蒟蒻仲ヶ間」を組織すると同時に、分家格の近江屋善兵衛名義にて、飢饉多発の折柄保存食として普及し始めた焼麩の製造にも着手した。
発 展
天保十二(1841)年、折しも開始された「天保の改革」における株仲間停止令により、株仲間業務の一時休止を余儀なくされるが、嘉永六(1853)年十二月、前々年発令の株仲間再興令の下「麩蒟蒻仲ヶ間」を改組し、翌嘉永七(1854)年正月、定書(定款)を決議の上、「麩蒟蒻屋仲ヶ間」として発足させ、かねて名跡を二代太兵衛(1826~54)に譲っていた初代が、「麩屋太郎兵衛」の名義で惣代に就任した。
また当時は、蛋白(グルテン)分が豊富で麩の原材料として好適であった奥州津軽/南部産の小麦を北前廻船にて取り寄せ、復路の便で扇子・佛具等の京都産品を出荷する物流事業も営んでいた(安政~元治年間(1854~64年)の帳簿類)。
尚、当舗には天保年間(1830~43年)に京都で活躍した、画人/書家にして文人でもあった梅泉山人こと白井華陽(~1836)の揮毫による、『聖訓』が伝わり、家訓として今に残されている。
幕末維新期
三代太兵衛-明治十七(1885)年「太郎兵衛」を襲名/改名-(1834~89)が麩業の傍ら、薩摩藩出入の商家として手形所の業務を請負い(薩州手形所門札)、国事に尽瘁するも、廃藩置県等によって頓挫する。明治二(1869)年、祇園町にて日本最初の小学校となる(下京第二十四→三十三番組小学校、後の彌榮校)を、一力亭当主杉浦治郎右衛門氏を始めとする地元有志とともに創設、続いて婦女職工引立會社(後の八坂女紅場)や療病院も開設した。明治五(1873)年、「壬申戸籍」編製に際しては戸長として集計に従事し、翌年の地租改正の折は、京都府に上地された旧寺院領の石高調査を請負う(建仁寺領借地米請求および受取証)。
他方明治五年三月、祇園新橋小堀西入に所在した当舗所縁の席亭「松の家」にて、第一回京都博覧會の附博覧として第一回「都をどり」が催され、創設者の一人としてその名が「八坂歌舞練場碑」に刻まれることとなる。
昭和前期
皇太后-貞明皇后=昭和天皇母后-陛下ならびに宮様方ご入洛の砌(みぎり)には度々のお買い上げを賜り、東京の宮城へも生麩を調進するべくご下命のところ、四代太兵衛は遠隔地運搬による不測の事態を鑑み、当舗伝来の製法を宮内省大膳寮へ寄託することを決意し、主厨長秋山徳蔵氏引率の職員各位に、累代相伝の製麩工程の一切を開示した。その後稍あって、褒賞として白羽二重地一疋と「三ッ重ねの木盃」を拝領した。
同時期、販路を百貨店中心へと転換、東京・大坂・名古屋などの国内各地はもとより、大連・京城(ソウル)・台北・新京(現長春)などへも製品を出荷するという活況を呈した。
間もなく世相を戦雲が覆い、製麩工程の副産物を利用した代用食や軍需用の焼麩を製造するなど、物資統制等の国策に沿った事業形態を取ることを余儀なくされていた矢先、昭和十六(1941)年四月に不慮の出火のため、店舗/居宅を全焼するという悲運に見舞われ、少なからぬ什物や文献が灰燼に帰した。
戦中・戦後
同年、往古の大内裏/神泉苑、近世の聚楽第/二条城に通じる清冽な水脈に恵まれ、貨物駅として京都の物流拠点の一つでもあり、原材料の安定確保が期待された国鉄(現JR)二条駅東側の現在地へと製造拠点を移転した。太平洋戦争開戦後しばらくは辛うじて麩業を継続出来たが、事業継承者以下主たる従業員が応召した状態に加え、戦局の悪化に伴う物資統制強化や企業合同政策等のため、事実上の休業を余儀なくされた。
戦後は、シベリヤに抑留された当主が昭和24(1949)年に復員帰国するまでは、留守居の内儀/親族らの協力の下、戦前・戦中の事業実績により、一定量の配給割り当てを確保出来た原材料を用い、漸く再興の目途の立った麩業の傍ら、焼釜でパンや洋菓子・煎餅等を焼き、時には有平糖をも製造するなどして急場を凌いだ。
今日まで
六代当主(1911~2002)がシベリヤより復員帰国すると稍あって、捲土重来の意気込みで、悲願である家業の再興に乗り出し、粉骨砕身の努力により、伝来の製麩技法の復興と戦前からの得意先の回復、そして新たな販路の開拓に取り組んだ。刻苦の甲斐あって業績も次第に向上し、戦後社会の復興と経済成長とにつれて、全国各地の百貨店で開催され始めた京都物産展にも率先して参加し、好評を博した七代当主(1939~2005)らによる餡入笹巻麩の実演販売等を通じ、「麩太の京麩」の令名を広めることとなった。近年も上記京都物産展等の催事はもとより、各地の主要百貨店・高級スーパーマーケットへも製品を出荷している。
現在、累代相続され続けた名跡の中断を惜しんだ八代当主(1968~)が、平成十八(2006)年八月、「太兵衛」を襲名/改名し、相伝の製法と伝統の風味の維持とに加え、往年の名代商品の改良/復興や新商品開発にも取り組んでいる。
平成庚寅立秋 枩蘖之識








