本物の手づくり麩を提供し続ける名店 創業文化年間 麩太

京名物百味會同人

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講演録 平成22(2010)年7月7日、同志社女子大学において開催された「第44回生活科学学会大会」での講演録へ、
科段を補った上文体等の整理を施して通読の便を図ったものです。

「京の食文化―京生麩―」 青木 太兵衛(創業文化年間「麩太」八代当主)

1. ごあいさつ

皆様、こんにちは。ただいま山田先生よりご紹介にあずかりました麩太八代当主、青木でございます。本日、小1時間ばかり喋れということになっておりますけれど、何分お聞き苦しいことも多いとは思いますが、よろしくお願いいたします。
「講演」と銘打っていただいておりますが、そのように堅く学術的にお捉えいただくようなものでもなく、また、そのようなことをお話する学識も能力もございませんので、四方山話ぐらいにお聞き流しいただけましたら幸いに存じます。

2.麩屋のない「麩屋町」

どんなことからお話しようかといろいろ考えていたのですが、京都で有名な通り名といいますか、大体御所の前から五条通あたりまで南北に通っている道に麩屋町通というのがございます。文字通り麩屋の町と書くのですけれども、現在、なぜか麩屋は一軒もございません。私ども麩屋をやっておりましても不思議に思っておりまして、なんで麩屋町という名前がついて、しかも麩屋がなくなってしまったのかという理由をいろいろ考えて調べてみたんですが、私の推定ではありますが、この辺について枕みたいな形でお話しさせていただけたらと思います。

「京の食文化―京生麩―」

大体麩屋町と呼びならわしている通りは、豊臣秀吉による16世紀末葉の京都市大改造、つまり御土居を築いたり、寺町を開いたりと、碁盤の目から短冊形に都市計画を変えたときの産物のようでありまして、元来は平安京の富小路という通りにトレースできる位置にあるようでございます。今でこそ東のほうから数えて寺町、御幸町、麩屋町というふうに3本目なんですけれども、もともと寺町が東京極大路、それから1本西が富小路、間に御幸町が入るという事情で本数がふえた結果、今の通りになっているようでございます。

ここがなぜ麩屋町と言われるようになったのかという理由を考えますと、麩屋町の御池を上がったところに白山神社という神社が建っております。そこの縁起を調べてみますと、12世紀の終わりぐらい、1170年代、治承年間に白山神社、つまり加賀の白山のほうから京都に僧兵が神輿を担いで強訴といいまして、朝廷にいわば強請的に要求を呑ませようとやってきたのですが、受け入れられず、追い返されて、そんなんやったらここに神輿を放っていくといって放置して、それが祠となって後に神社になったというふうにその由来が社伝として残っておりますが、どうもこれは納得出来ない。余りにも出来過ぎた話であるなと思いまして、更に色々と調べてみますと、この近辺というのは非常に良質の水脈が湧き出ていた。昔から京都の洛中でも非常に水質もよく、水源豊富な土地であったということが判明いたしました。水が豊富に出ますと、それを利用しようとする職能集団が集まってくるわけでして、それはどういう類のものかと申しますと、染物になるわけです。その染色の職能集団が氏神のような形で祀っていた神様が加賀の白山権現。ここの祭神は山の神様でして、「久々利(くくり)媛命」、あるいは「菊理媛命」と申します。「くくり媛の命」の「くくり」というのはどういう意味かというと、絞り染の神様であるわけです。絞り染の神様ということで「括る」という字、あるいは「水くくる」というふうに水で洗うという意味もありますので、いずれにせよそういう「くくる」という動詞から派生して神様の名前に習合したのではないかとも言われますし、絞り染というのは、絞った糸を解いて広げると菊の花のように菊綴じとか、あるいは花房という菊の花状の模様になります。それで「菊理(きくり)媛」というふうな名前がついたのではないかと。これは余談ではございますが、そうした神様を信仰する職能民が勧請した形でその地に守護神としてお祭りする。

京都の町中というのは案外そういうところが他にも残っておりまして、例えば二条烏丸を西へ入りますと、神農さんというお薬の神様を祀った祠もありまして、そこは周りが生薬屋さん、薬種問屋街ですので、そういうある職業の人が集中するところにはそれに対応した神様をお祀りするというようなことをしていた面影があります。その染色の職能民が集まって住んで作業に従事する中で何が必要かとなりますと、染といっても絞り染ばかりではなくて、ロウケツとか、あるいは挟み染、これをキョウケツと言うのですが、こういう染物もございます。他に擦り染といいまして、色止めをしながら多色刷りに染めていくような技法も中にはございまして、それには色止め用の糊が必要になってまいります。糊といいますと、これはデンプン糊が古くからずっと使われていたものでして、今でも京都の友禅の染屋さんとかでも盛んにデンプン糊は使われております。

そうしてまいりますと、染色に必要な素材を供給する糊の業者も一緒に集まって来るという事態が起こったものと考えられます。水も豊富ですから、小麦を蛋白質すなわちグルテンとデンプンに分離しまして、デンプンのほうを色止めの糊に使い、グルテンのほうは麩の原料になりますので、必然的に糊屋すなわち麩屋が集まって来て、それで白山通というふうに言い慣わしていたところへ、今でも麩屋町のことを白山通というふうに書いてある地図も稀にございますが、白山通という名前が定着した後で、そこへまた麩屋が集まってくるという状況が発生しまして、麩屋町という名前となった模様ですが、どうしたわけか、江戸時代初期の史料あたりから麩屋がここにあるという記述がなくなってしまいます。

なんで突然麩屋がなくなったのだろうかと考えてみますと、恐らくは排水の問題ではないかと思います。糊とグルテンを分離した後、強い臭気の白濁した排水が出ますし、しかもそれを友禅流しのような染色の色落としと同じ水流で排水するわけで、汚水の問題がかなり深刻に出たようでして、特に徳川幕府が開かれて、二条城なんかが徳川家の本拠地となってから、ある御触れが出たということを知り合いの友禅染屋さんから聞いたのですが、押小路より上で染物の仕事をすること罷りならん。どういうことかといいますと、大量の排水がどんどん堀川へ流れ込みまして、二条城の前を汚い水が流れるということは非常に宜しくないということで、洛中では押小路より上では染め物は出来なくなってしまって、織りだけになってしまう。そういう御触れが出てから、それまで市中に分散していた染色業者が壬生とかあちらの方角に集団で移転するということが起こりまして、麩屋町の白山神社の近くに多かった麩屋さんも一緒に四条大宮あたりへ移転したのではないかというふうに考えたわけでございます。实際、四条大宮の周辺は戦前ぐらいまでは麩屋さんがたくさんありまして、今でも水源が豊富ですので、もともとそんなに古いお店はないという話ですけれども、染め物に関する糊屋さんと麩屋さんとを兹ねているところが殆どでしたので、そっちのほうへ移ったのではないかというふうに私は推測しているわけです。
大体そのようなところを枕にさせていただきまして、本題に移らせていただきたいと思います。

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3.麩の起源と伝来

お手許に年代順に纏めました「麩に関する諸資料」というものをお渡ししているのですが、そもそも麩という食べ物は小麦粉のグルテンを原材料としたものなのですが、漢土、つまり唐土(モロコシ)、中国大陸のほうではもともとは麪筋、つまり麺類の麺に筋、この字は別字体の「麪」なんですが、この字は元来麺類のことを指したのではなく、小麦粉の意味であるとのことです。いわば小麦粉の筋、つまり筋肉の部分というので「麪筋」というふうに中国のほうでは言い慣わしておりましたが、北宋期に沈括という博覧強記な随筆家がおりまして、彼が著した事典的な『夢渓筆談』という書物に麪筋というものがありますよと、辞書的な意味でこれは小麦粉のいわば筋の部分云々という意味の内容を記しておりまして、当時は既に食用として用いられていたようですが、その料理法までは記されておらず、実態はよく把握は出来ないのですが、もう少し時代が降るというか、700~800年後の清の時代に、袁枚という非常な教養人の美食家が出まして、こちらは『隋園食単』という料理のレシピ集などを残しております。その『隋園食単』の中に麪筋三体といいまして、その調理法が載っております。それによると生のものと油で揚げたものがありまして、小麦粉をデンプンとタンパク質、つまりグルテンに分離したもののグルテンの食べ方というので、油で揚げて、これを炒め煮にして食べる。つまりグルテンそのものを調理して食すというレシピをこの書物の中に記しておりますが、これは今でも中華料理なんかで食べられている方法と一緒です。グルテンというものは、その性質上そのままでは煮炊きできないという事実がありまして、加熱をしますと固く縮み上がってしまいますし、塩気のある汁で煮ますとバラバラに分離してしまいますので、これをどういうふうに処理するかというのはかなりテクニックが要ったようでございます。

中国なんかではどうやって食べるかといいますと、生のグルテンを拳大ほどのブロック状にして油で揚げて、これをしばらく煮汁の中に浸けておくとか、バラバラにならないように揚げた部分で周囲を固めて、表面に皮をつくって、それを煮込んで味を染ませて食べるとか、油で揚げたグルテンを細く刻んで、海老の醤醢(ひしお)みたいなもの、あるいは豆板醤のようなからし味噌みたいなもので炒めるという様々な食べ方がこの『隋園食単』には載っておりますし、日本でも今でも「大徳寺麩」という形ですが、この名は伝わったお店の登録商標になっておりますので私どもは遠慮しているのですが、炒め煮のような精進料理の生麩の食べ方というのは未だにに残っておりまして、これはなかなか乙なものでございますが、機会があったらお召し上がりいただきたいと思います。

さて、それを日本ではそれはどのように食べて来たのかと調べてみますと、小麦を食べるという習慣は古墳時代以前から入って来てはいたようですけれども、グルテンにして何とかというような凝った食べ方というのはなかった模様です。奈良時代、平安時代の史料を調べても、麩をどういうふうに食べたかという記録は一切見当たりません。麦の話はちらほらと出て来まして、小麦粉を練ってうどんのように仕上げた麦縄(むぎなわ)・索餅(さくへい)とか申しますが、神様のお供えにするとか、朝廷の儀式の料理に供するというのは出て来るのですが、『延喜式』とかこうした宮中やその周辺の行事、儀式のプロトコルのような本には麪筋、つまりグルテンの食べ方は全然出てまいりませんので、食べてはいたのでしょうが、少なくとも一般化はしていなかったと思います。

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4.麩の定着

それが鎌倉時代に入りますと、内侍所配下に「精進唐粉供御人」という職能集団が発生しまして、宮中に小麦粉を調進していたが、麩についての記録は未見と配布資料には書いております。これはちょっと後でまた注釈的にお話し致しますが、女官の中で小麦粉を製粉して、宮中に納める職能を持った人々がいたようですが、具体的にどうしたことに使っていたか。恐らく小麦粉を納めて、それで宮中のほうでは神饌とか供御、つまり天皇のお膳に出すようなものに加工していたと思いますが、いわゆる麪筋、グルテンについてのことは何も載っておりません。

もう少し時代が降りまして、南北朝時代の頃になって初めて「麩」という言葉で記録が出て来るようになります。こちらのほうに記載しておりますが、『斑鳩嘉元記』という奈良の斑鳩法隆寺の日記文書なんですが、正平7年、1352年、建武中興といわれる後醍醐天皇による討幕後の混乱期になりますけれども、その辰年5月10日の条というところを読んでみますと、どうも宴会の料理なんですが、寺で酒を飲んで、酒の肴と何とかということをやっているのは不思議といえば不思議ですが、三肴立毛、多分これだけの意味かと思うのですけれども、一肴、二肴、三肴というような献立の当時の食慣習というか、お膳の順序がありましたが、それが載っていると思います。これを一々読みますと、タカンナというもの、これはタケノコです。篁という字の当て字だと思います。タケノコ、それからウトムと書いてありますが、これはうどんです。次にフです。これが今の麩、恐らくはグルテンそのもの食べていた麩のことだと思います。それからサウメンというのは、小麦粉のだんごを細く伸ばして食べるという吸い物の具に使うものでして、当時まだ鰹とか昆布の出汁を乾鰹汁(いろり)と言い慣わしておりまして、恐らくこれで味付けをして出していたものだと思います。後は、折敷が6人前とか、これは実際的なことが書いてあるのですが、粽、これは恐らく餅米の粽のことかと思います。それから麦粽、麦だんごで粽をつくって、それを出したものやと思います。飴一杯と書いてありますが、この飴というのは恐らく麦芽飴のことだと思います。あとビワとか白瓜とかハイ、つまり盃少々などと書いてありますが、一応精進ものなんですけれども、祝いの席か何かのようで、酒も出ております。これに類似した茶会記ですとか、公家方や朝廷の日記類、あるいは社寺の日記類にいろいろ麩は出てまいりますが、どれもグルテンそのものを食べている模様で、今のような麩ではない趣きになっております。

これが江戸時代に入りますと、人見必大という本草学者ですが、今でいう薬学者が『本朝食鑑』といいます食物事典を著しておりまして、これは元禄8年、1695年に出版されています。ここにはっきり「麪筋、俗に不(ふ)と言う」と記されて、麪筋と麩が明確な形で結びついております。これはちょっと我々麩屋としましては興味深い記事でして、どうも先ほどの室町・戦国期の文書、あるいは『松屋茶会記』とか、ここには載せておりませんが、利休の茶会記なんかにも麩という名前が出てきます。あるいは「麩の焼」という名前で麩のことが出てまいります。ところが、この「麩の焼」の麩というのは、どうやら現代で言うているような生麩とか焼麩などの一般的に食べられている麩ではなく、小麦粉をそのまま水で溶いて鉄板の上で焼いた、どっちかというと今のクレープに近いものだった可能性が高いと言われております。つまり当時、ヨーロッパのほうから南蛮船が来航しましてキリシタン文化というのが日本へ入って来る。それで宣教師なんかはゴーフレットという、今でもありますよね。商品名を言うのもなんですが、ヨックモックみたいなものですが、そうした類のものが日本に南蛮菓子として入って来て食べられていたというふうにも言われておりますので、麩、あるいは麩の焼き、すなわちグルテンであったとは言い難い側面がございます。しかるに、江戸時代に入りまして、「麪筋を俗に不(ふ)と言う」というように定義づけされたわけでして、これは実際注目すべき変化だと私は思っております。

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