本物の手づくり麩を提供し続ける名店 創業文化年間 麩太

京名物百味會同人

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講演録 平成22(2010)年7月7日、同志社女子大学において開催された「第44回生活科学学会大会」での講演録へ、
科段を補った上文体等の整理を施して通読の便を図ったものです。

「京の食文化―京生麩―」 青木 太兵衛(創業文化年間「麩太」八代当主)

5.麩(ふすま)と麩(ふ)

配布資料にその製法が載っておりますように、「麩と書いてふすまと読む」書いておりますが、「麩(ふすま)を水に和し云々」と。この麩(ふすま)というのはいかなるものかといいますと、小麦粉を製粉している過程で、つまり当時は臼で製粉するのですが、挽くのではなく搗(つ)いておったようです。搗いた小麦粉を篩(ふるい)に掛けますと、殻や滓が残ります。それを麩(ふすま)と言いならわしていたようです。その使用法についてはまた後で説明いたしますが、その麩(ふすま)は麦粉の滓(かす)になります。大体糠みたいなものと思っていただいたら結構ですが、これを水で溶いて、塩少々を加え、これでグルテンが分離して塊りやすくなりますので、手で数回揉んで餅状にし、それを更にに揉み合わす。あるいは足で揉んで捏ね、滓を取り去ってから清水に浸して、麪筋(ふ)をつくる。注目すべきは麪筋が“ふ”であって、今の「麩」という字は“ふすま”と書いてあることです。麩(ふすま)でつくるので俗に麩(ふ)と言うということです。近ごろは足で踏むことを忌んで手で揉み合わすが、これは上饌に供するためである。足でばんばん踏んでつくるのは、私ども子どものころは自宅でうどん粉をこねてうどんをつくるときに足で踏みましたけれども、「おいお前、ちょっとそこに立って踏んどけ」と言われて、よく踏まされたのですが、昔はそういう作業を延々繰り返して、水で流しては麪筋を残して仕上げていったのですが、神佛への供御とか、公家とか禁裏御所などに納めるのに、足で踏んでいるのは畏れ多いということで手で揉むようになったということなんでしょう。

次いで「その一種に麪粉(むぎこ)でつくるのがある。より白い麪粉(むぎこ)に塩少々を加え、水で練って餅状にし、手を使って水中で数回揉む。あるいはこれを杵でついてかためて水に入れると、旧綿のちぎれたようになる」つまり、麩(ふすま)ではなく小麦粉そのものを使ってそこからつくる。その方がきれいな色のものがで出来上るいう意味だったそうですけれども、そういう製法もあります。

5.麩(ふすま)と麩(ふ)

それで実際はどのように拵えていたかと言いますと、こちらの方にその作っている絵がございますので、ご覧いただきたいと思います。こちらは幕末の『往古噺の魁』という書物に載っております挿絵で、「京麩の伝習」という件りなんですが、ここに男性が2人桶の中に入って、足で踏んで拵えております。これが小麦粉からグルテンとデンプンを分離する製法とし実践されていたあり方のようなのですが、戦前ぐらいまでは実際こういうふうな形でグルテン、我々は「生を取る」と言いならわしておりますが、グルテンのことを「生」と言います。これは完全に業界の符丁で、「生」というたら余所の人が聞いても何のことやらわかりませんけれども、大体どんな業界にも符丁やら隠語みたいなものがあるようですが、我々はこれを「生」と言い慣わしております。実は今日は大変やりにくいことに、先々代の弟が、親戚が来て座っておりまして、私など冷や汗かきながら喋っているのですが、こういうふうに職人がデンプンとグルテンに分離して、こういう大変な作業だったようでして、京都の古い言葉に「生を踏む」という言い回しがありまして、「ああ生踏んだわ」、しんどい作業をすることを生を踏むというぐらいで、特に昔は麩(ふすま)から作るときは殻や滓の混じった挽き割の小麦ですから、ざらざらの粒子状のものをどんどん踏んでいってそこからつくるもので、足指が傷ついたり、指の爪の中に粒子が入ったりすることもあったようで、兎に角大変な作業で、非常な重労働だったとのことです。それで「生を踏む」という言葉が出来上るぐらいのものだったと聞いております。

江戸時代前半までは、グルテンとデンプンとに分離して、デンプンは糊として、グルテンは食用として使われておったわけですが、同じようなことが『和漢三才図絵』といってお手許に配布しました資料の1ページの下のほうに出ておりますが、これも大体書いてあることが同じでございます。またご参照いただいたら結構です。
料理法としましては、先ほど申し上げましたように、グルテンそのものをブロック状にしまして、油で揚げたり、そのまま加熱してかたまりにして、それを炒め煮のような形で味を染ませて、あるいは「いろり」という出汁に浸して味を付けて食べる。あるいは最初から鰹出汁のことを古くは「乾鰹汁„いろり‟」と申しまして、そこでグルテンをそのまま入れて煮る。煮ていくうちにバラバラになって来ますので、それをお椀の中に1カ所に集めて形を整えて、そこへまた別のお出汁を加えまして、寄せてつくるので「寄せ麩」というふうに名付けて食べていた模様でございます。

その後も色々ととそのまま煮炊きできないかということを工夫していた模様なんですけれども、ちょっとここで話を戻しまして、先ほど南北朝時代が最古の記録というのを申し上げまして、そちらのほうに『斑鳩嘉元記』という一番古い資料を提示いたしておるのですが、これ以前に本当に麩はなかったのかといろいろ調べものをしているうちに疑問に思いまして、実は染色の技術が日本に入ったのと同時に小麦粉の加工法、つまりグルテンとデンプンに分離する方法が伝わったのではないか。デンプンのほうは染色糊になり、グルテンのほうはどう使っていたかとなりますと、そのまま捨てていたとも考えにくいですので、かなり古い時代から何らかの方法でずっと食べていたではないか。こちらなども今後、そうした形跡がないか色々調査してみたいなと考えております。

しかも、平安京というところは全国から物資が集まってくる。つまり租庸調の租と調が集まって来る商品作物の一大市場でございましたので、食材から工芸品から、ありとあらゆるものが集まってまいりまして加工・生産されていたわけですので、その辺りに色々な史料とかが出て来るのではないかというふうに考えて、色々調べもの続けていますと面白いものが見つかるものです。先ほどちらっと触れましたように内侍所の女嬬の管轄下に「精進唐粉供御人」という集団がいたと申しましたが、これは「刀自女」という官位を持った女性の集まりだったそうです。この刀自女というのはどういう役目かと申しますと、宮中の台盤所、つまり供御のお膳を掌る女官でして、その辺の仕事のうちで素麵みたいなもの、あるいはうどん、麦縄(むぎなわ)のような供御の製造にずっと携わっていたものだと思います。

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6.食用以外の利用法

もう一つ、唐粉というからには麩(ふすま)のほうも扱っていたのではないか。唐粉といいますと、殻を交えたような麩(ふすま)のバサバサの粉のことを言う場合もあるようですので、その唐粉を扱っていた女性たちがこれを何に利用して、宮中にはどういう目的で納めていたかその理由を考えてみます。つまり麩(ふすま)というものをどういうふうに利用したかということです。これも別の書物を読んでいますと注目すべきことが判りまして、古来洗顔料あるいは美顔料として使われていたというわけです。実は元禄6年、1693年に当時のマナーブックとして『男重宝記』という書物が出版されております。その中に、「小麦の挽き滓を京にては“唐粉のかす”といい、大阪にては“もみじ”と言う」。つまりこれを水に溶いて練りまして、洗顔料として顔の皮脂とか角質を取るために利用したということでございます。つまり食用というよりも、こういう目的にも使っていたのではないかと推測され判明されたわけです。また、洗顔用にこれを入れた“もみじ袋”というものも売り出されていたようでして、実は内侍所の刀自女、つまり女嬬というか女官、彼女らは食品としての小麦粉を宮中に納めるとともに、女官から、公卿、殿上人などの洗顔料としても唐粉、つまり麩(ふすま)を納めていたのではないかと推測されるわけです。こういうふうな切り口から見ていっても、麩という字、この場合は麩(ふすま)なんですが、なかなか興味深いものかと思います。

実は唐の時代の長安にも、貨幣なんかは銀行、「行」とつくと会社、業者ですので、麩(ふすま)を扱う企業で「麩行」というものもあったようです。つまり麩(ふすま)を扱って販売する業者もいたようで、大体麩行というものが長安にあって、どういう業務に従事していたかというのは、今後調べていくと、興味深いことが色々出てくるのではないかと思っております。

7.麩の「革命」

時代が、又もや先ほどの方へ飛びますが、そのグルテンをどのように食べていたかというと、炒め煮や、煮た後に寄せて吸い物の具に使ったりとかというふうに食べていたということを申し上げましたが、日本人というのは餅のような食感の食べ物を好む傾向がかなり昔からありますので、そういうふうに食べられないかなという要望を麩に対しても持つようになっていたようでして、その後、実は元禄を過ぎて18世紀に入りますと、1718年ぐらい、つまり享保年間のことですが、加賀の国の金沢、ここは今も麩の産地としては有名なところなんですが、加賀の前田家の料理人で舟木伝内という人物がおりまして、彼が「合せ麩」とか「思案麩」という麩を発明したという記録が残ってございます。その記録につきましては、こちらのほうにも題名だけは触れておるのですが、伝内そのものが書いた資料は残ってはいないのですが、伝内の子息になります長左衛門という人がおりまして、舟木長左衛門という人が父親の秘伝を盗んだのか見習ったのか判りませんけれども、何冊か出版しております。それが『ちから草』とか『料理の栞』と言われているものでして、現在これは希覯本になっておりましてなかなか出回ってはいないのですが、これも一度じっくり調べてみようかと思っております。私の手許の資料には、そこに「思案麩」「合せ麩」というもののつくり方が載っておりますが、その内容によりますと、我々にとっての生麩というと一般に市場で売られているような生麩なんですけれども、恐らくそれはグルテンのことを指しますので、そのグルテンにうどん粉をちりちりと混ぜ合わせ、これをよく練り合わせて、茹でて作るという工程になっておりまして、つまりグルテンだけでは煮炊きに使えないということで、つなぎに米の粉やうどん粉を練り合わせて拵えるという製法を舟木伝内という人物が発明したと言われております。

但し、この時代、他にも『槐記』という茶会記が京都のほうでずっと書かれておりまして、これはどういうものかと申しますと、摂関家の近衛家の当主で、近衛家熙という長年関白を務めた公卿さんがおられまして、そこの主治医の山科道安という医者で茶人でもあった人物がおりまして、それが主君である近衛家熙の言動をずっと書き残しているわけで、その中の茶会記などには「思案麩」とか「合せ麩」という語彙が何回も出て来まして、ちょうど同時代ですので、京都でも同時発生的につなぎを混ぜた現在の麩に近くなったものが発案/工夫されて、普及し始めたのではないかというふうに考えられます。

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8.京都の麩と京料理

先ほどの『本朝食鑑』や『和漢三才図絵』によりますと、麩は京都の市上でつくられるものが上品である。江戸の市上でもつくるが、それは上品に次ぐ。麩は、グルテンの場合は京都の市上でつくられたものが最もいいものであるというふうに書かれておりますし、次の『和漢三才図絵』でもたしか同様の記述があると思います。京師、都でつくるものが最もよい。京都という町は、豆腐、湯葉、そういうものは最高のものができると昔から評判がございまして、先ほども触れましたように染色とこういうものが不可分であったという事情もありますし、加賀なんかも加賀友禅と言うぐらいで水の良い土地でございますから、加賀とか京都の産品というのは、やはり水質がこういう植物性タンパクを主原料としたものに向いているのだと思います。

さて、時代がちょっと下りまして、享和2年、曲亭馬琴、つまり『南総里見八犬伝』ですとか、『椿説弓張月』などを著した江戸時代の文豪ですが、この人が京都の方に観光旅行と取材旅行を兼ねて旅をしておりまして、これが1802年、ちょうど私どもの店が創業した時代になると思うのですけれども、その時に面白い記事を書き残しております。大体江戸の人間というのは上方、つまり関西/近畿地方を見る目というのはかなり対抗意識があって好意的ではないのですけれども、その七十六段に「京地の酒楼」という件りがありまして、「京にて味よきもの、麩、湯葉、芋、水菜、うどんのみ。その余は江戸人の口に合わず」と書いてあります。評判は高いのに美味くないものが多い、この日記を見ていると案外おもしろくて、評判ばっかりで大して美味いものがないやないか、そういう文句ばっかりが書いてあります。例えば魚は半身だけしか出て来ないとか、京都の人間はけちで、自分の家で料理すると皿小鉢が割れるのを嫌がってみんな料理屋に連れて行く。そういうことまでぐずぐず書いておりまして、京都の人間からすると、それはそうなんやけれども、ちょっと腹立たしいような気もするのですけれども、当時はそういうものだったと思います。つまりお江戸の人から見ると、京都というところは美味いものがない。というような悪口をずっと言われています。

京都から見た東京、江戸のほうはまた逆でして、明治維新の時に宮中の行列について江戸に行った御所侍や公家侍と言われる人々と京都に残った親族の遣り取りというのがなかなか面白いものでして、どういうことかというと、東京は魚がうまい、江戸は魚がうまいうまいというて楽しみに行ってみたら、全然美味しくないやないかというような悪口を書いて御所侍が送ってくるわけです。それはどういう内容かといえば。江戸の魚は舌を刺さん、風味がないというんですね。京都の魚というのは、ご存じのように海が遠いですし、運ぶのに時間がかかりますから、たとえ若狭の一塩物といっても、向こうで浜に上がってそこで塩したものが京都に着くのに一昼夜くらい掛るわけで、所謂鮮度は確実に落ちています。京都の料理というのは、鮮度の落ちた魚をどうやって美味くこと食べるかというのが肝心ですね。例えば「ぐじ(アマダイ)」というのは私の好物の一つなんですけれども、一塩したぐじを糸造りというふうに細切りにして、それをポン酢で食べるという刺身があるのですが、これは魚の水分が一塩することによって流れ出てしまって、旨味だけが残ったような形になって、非常にこくがあって美味いものなんですけれども、鮮度が落ちたそれは多分舌を刺したと思うんです。しかし、旨味と舌を刺すというのは、酸味が出てきたりというのとは、当時京都の人間にしては不可分の感覚だったのかも知れません。

9.京麩を育てた京の食習慣

そこで麩の話に戻りますと、麩というのはご存じのようにお寺とか宮中なんかで主に食べられていた。どういう訳かといいますと、お寺になりますと、精進料理しか食べたらいかんという建前があったということで発達するのは当たり前なんですけれども、宮中とかお公家さんになるとどうしたことかといいますと、大体近親者というか、父母等の親等が近い人が亡くなりますと、祥月命日を精進日に定めて、魚鳥肉食を絶つ、遠慮するという風習があったようです。しかし、そんなことを続けておりますと、我々一般庶民の生活でそんなこと実行出来ませんので、我々になりますと盂蘭盆会、つまり8月半ばに一括しまして精進日というわけでもないですけれども、肉類は遠慮するという習慣が残っておりまして、私なんか生まれが実は8月15日でございまして、子どもの時分、肉も食べられへん誕生会で、友達も誰も海とかへ行って居ませんし、何も面白いことがない非常に不愉快な目に遭うて、「ハンバーグがなんで出て来いひんのや」と怒っていたのを覚えておりますけれども、京都の食文化の中で麩というものを食べる慣わしには、一面で魚とか肉の代用品であったという背景もございます。

そこでなぜ京都の麩がそれだけ有名になったかといいますと、つまりグルテンをどれだけ、私らは「生を落とす」と言いまして、グルテンを滾々と湧き出る井戸水に晒して置いている状態で、ちょうどいい頃合まで「生地の力を落とす」と言うんですけれども、弾力を落としていくと、旨味が増して来るという工程がありまして、それをちょうどいい頃合で引き上げて、餅粉と練り合わせて、「地を挽く」と言いますが、生地を合わせて、それを蒸したり湯掻いたりして成形して色々な素材、例えばヨモギとか、アワですとか、色粉だったりもしますし、そうしたものを練り合わせて作っております。

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10.京生麩の製造工程

時間の方も押してまいりましたので、昔の製造過程、百聞は一見に如かずですので、大体今から50年以上前なんですが、NHKで「新日本紀行」という番組が昔ありましたが、恐らくそれで放映するために私どもの店に取材/撮影が入り、そのときのフィルムをDVDに起こしたものを持参しておりますので、それをご覧に入れようと思います。大分古い画像で、カットしている部分もありますので、判りにくいかもしれませんが、そのあたりは解説させていただきますので、どうぞ一度ご覧になってください。

(DVD放映)

1958年、昭和33年、JOVK、NHK大阪放送局による撮影です。紫野大徳寺の映像です。そちらに精進料理屋さんで紫野一久さんというところがありまして、そちらのほうと連携した取材だったようで、そのお店先が写っております。
これが昔の大徳寺さんです。のれん越しに写っております。
桶にまず小麦粉を入れまして、桶でまた水を足します。今、混ぜておりますのが同店の先々代の主、私の祖父でございます。こういうふうに小麦粉と水を練り合わせて繰り返し練っては洗い、洗っては練りという工程を重ねてまいります。
水をたっぷり入れたところでこういうふうに通しの上に空けまして、またデンプン質を洗い落としていくことになります。
今はこういう手でする作業でもなくなりまして、排水の問題もありますので、業界で一貫して業者に頼んで、そこで代表して取ってもらっているのが現状でございます。
包丁で切れ目を入れるのは、これで「力」といいます弾力を落として加工しやすくするための工程です。それはまだグルテンの段階です。このあとカットが入ります。
ここで餅粉と練り合わせているところに飛んでおります。職人がこういうふうに生地をまた柔らかく練り上げて、これを何度も繰り返して行き、材料を生地として加工出来るように柔らかく加工します。こういうふうに伸ばしていきまして、この職人もリタイアしましたが、うちに長いことおった人です。
これはもみじ型の麩です。木型に入れまして、茹でる工程を映しております。本来ならば、二十段ほど色を重ねてするのですが、当時はモノクロですので、そういう工程は抜きにして、別段色のぼかしは入っていないような状態で撮影しております。

これが茹で上がりますと、今度は水に浸けて粗熱を取るという工程です。粗熱を取ったところでまた再び木型を外しまして、中からもみじ型の生麩を取り出します。
次に切るとどんな切り口になるかというのをお見せするために切っております。
次は、笹巻き麩といいまして、麩まんじゅうが映ります。これは青海苔を練り込んだ生地で漉し餡をくるんで、笹で巻いたお饅頭でございます。
こういうのも手作業でやっております。今は生地を練ったりするのは機械を使っておりますが、後は同様の作業を繰り返しておりますので、私どもは手造りいうのを旨として作り続けております。
一応作業工程の映像はこれでお終いですけれども、当時の京都の町並みなど、面白い画像でもあります。一応これで終了でございます。 大変取り留めないお話ばっかりになってしまいましたが、時間もまいっておりますので、この辺で質疑応答などございましたらお伺いしますので、よろしかったらどうぞお願いいたします。

司会:青木さんは本当に勉強家でして、普段からなかなか手に入りにくいような古文書、あるいは専門の研究者と同じような専門書を非常に丁寧に読みこなしておられまして、きょうはその一端を伺わせていただくことができたと思います。これで講演を終わらせていただきたいと思います。最後に皆さんに謝意をもって拍手をお願いしたいと思います。(拍手)

青木:どうにも取り留めもない四方山話をご清聴いただき、ありがとうございました。私どもの店の昔から残っております史料の一部を後ろのほうに展示させていただいておりますので、お帰りの際にでもご覧下さいませ。なかなか普段には出さないものを集めておりますので、よろしかったらどうぞご覧下さいませ。
本日は、ありがとうございました。(拍手)

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