本物の手づくり麩を提供し続ける名店 創業文化年間 麩太

京名物百味會同人

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1. 字句の意味

「麩」の字義はおよそ二つに大別されます。すなわち「麩(ふすま)=麬」と「麩(ふ)」の二種で、『大辞林』では、
A. ふすま=小麦を粉にひいたあとに残る皮。飼料や洗い粉に用いる。からこ。もみじ。むぎかす。
B. ふ=小麦粉のタンパク質(グルテン)を練り固めた食品。生麩(なまふ)と焼き麩がある。
と定義されていますが、以下では主としてBの「麩(ふ)」の成り立ちを巡って説明を進めることとします。

2. 起 源

漢土すなわち中国では古来、隋・唐代(581~907)頃から、小麦蛋白(グルテン=麩素)は「麪筋」と呼ばれて食膳に供され、小麦粉常食圏であった黄河流域では早くから普及していた模様です。「麪筋」とは、麪(麺=小麦粉)の筋、謂わば筋肉の要素を意味する語と思われますが、北宋(960~1127)中期の官人学者、沈括(1030~94)が著した随筆集『夢渓筆談』には「凡鐵之有鋼者。如麺中有筋。濯盡柔麺。則麺筋乃見。錬鋼亦然。」つまり「鐡(鉄)に鋼があるように、麺(小麦粉)にも筋(麺筋)がある-大意-」という記述が見られます。隋・唐代から当時にかけて流布していた、大乗佛教の教義に基づく肉食忌避の食習慣による、「素食」すなわち精進料理の流行もその普及に貢献したものと考えられますが、ともあれ食材として定着した麪筋は、後世に到るまで漢土各地で食され続け、清代(1644~1912)中期の風流人士、袁枚(1716~97)が著した料理指南書『随園食單』にはその料理法の数種が紹介されています。

本朝食鑑(麪筋)

3. 日本へ

「麩(ふ)」の名称の日本における文献上の初見は、中世法隆寺の日記文書『斑鳩嘉元記』に残る正平七(1352)年壬辰五月十日条、「三肴立毛、タカンナ(篁=筍)・ウトム(饂飩)・フ(麩)・サウメン(素麵)・一折敷・数六・粽・ムキ(麦)粽一杯・アメ(飴)一杯・ワリコ(破り籠)・ヒワ(枇杷)一フサ・白瓜少々・ハイ(盃)少々。」という記述で、通説では南北朝時代(1336~92)頃から食膳に供され始めたとされ、一説には南宋滅亡(1279)前後の混乱を避けて来朝した禅僧らが、麪筋の製法や料理法を伝えたともいわれます。

都 雀

3. 日本へ

4. その後

室町~戦国時代(1392~1573)には麪筋を食する習慣が、精進料理を常食とする寺社はもとより、「精進日」を設けることの多い朝廷あるいは幕府周辺から、次第に社会一般へと普及し始めますが(『東寺百合文書』、『山科家礼記』、『尺素往来』、『山内料理書』、『北野社家日記』、『多聞院日記』、『松屋茶会記』等々)、そこに記される「麩(ふ)」の内容は、麪筋を炙り焼や吸い物の具材として料理した献立の他、小麦粉等の穀粉やその澱粉質(「沈」や「浮粉」等)を水で溶き、クレープ状もしくは煎餅状に焼いて味噌や甘味料で調味した菓子類、すなわち「麩ノ焼」に到るまで様々で、現在のような形態での「麩(1.B)」の定義は未だ存在しませんでした。

5. 麪筋から麩へ

この状況は江戸時代に入っても特に変化せず、元禄十(1697)年刊行の人見必大(1642~1701)の編著になる食物事典『本朝食鑑』に到り、漸く「麪筋:俗稱不:用麩(1.A)和水-中略-作麪筋故俗稱麩」という明確な言及が見られます。続く正徳三(1713)年刊行の、寺嶋良安(1656~1730)編著による百科事典『倭漢三才圖會』にも「麪筋俗云不」とあり、続いて「俗用麩字非也。麩小麥屑皮也」つまり「俗に麩の字を用いるのは誤りで、麩とは小麦の屑(かす/くず)皮である」と説かれ、続いて「按麪筋今多造之“麥+屑”‐麩(1.A)和水-後略-」と記されるように、麪筋(グルテン)成分の含有率が高い麩(1.A)を原材料とする麪筋抽出法が、麪(麺=小麦粉)から麪筋を抽出する方法(「一種有用麪‐粉而造-後略-」『本朝食鑑』)と並行して普及していた状況から発生した、認識の食い違いが記述に反映しており、したがって「麪筋(ふ)」とその俗称/宛字であった「麩(ふ)」が類義語として周知されて定着する時期は、早くとも正徳年間(1711~16)を遡れないことが判明します。

6. 技術革新

続く享保年間(1716~1736)、麩の歴史上に大きな転機が訪れます。漢土も含めて従来は、麪筋の調理法としては、その塊りを炙って味噌田楽仕立てに、あるいは油で揚げて酒漿(煮切酒)乾鰹汁(いろり=鰹出汁)等で煮浸すという方法が主流でしたが、これらは塩分に弱くしかも加熱すると分解してしまう麪筋の弱点に適ったものでした。
ところが享保頃から加賀と京都で、麪筋に〈つなぎ〉として米粉や小麦粉等の穀粉類を加えて練り合わせ、加熱して仕上げる「合せ麩」あるいは「思案麩」と称する製法が相次いで案出され、急速に一般化して行きます(『槐記(京都)』『御膳所日記(京都)』、『ちから草(加賀)』、『料理の栞(加賀)』等々)。これは前述の弱点を克服し、煮物や吸物等の多彩な料理に容易に使用出来るよう改良した日本独自の画期的な発明であり、その製法の原理は現在の生麩と焼麩に受け継がれています。

7. 京麩

前述の製麩技法の革命的転換は忽ち全国に伝播し、各地で特色ある麩が製造される趨勢となります。就中、王城の地であり大寺社が集中する京都は、平安時代以来貢納交易を問わず、全国からの物産が集まる市場であり、麩の製造に好適な良質で豊富な水源に恵まれているという好条件から、貞享三(1686)年刊行の黒川道祐著になる京都案内書、『雍州府志』の巻六.土産門に「京麩」の語が記されるのを初見として、前掲の『本朝食鑑』には「京師市上造成者為上品」、『和漢三才図絵』にも「京師所造者最良」と記され、早くから名産としての定評を得た模様ですが、上記製法革新以降の江戸後期に到ってその評判はますます高まり、曲亭馬琴(1767~1848)は、享和二(1802)年の旅行記『壬戌羇旅漫録』に「京にて味よきもの。麸。湯波。芋。水菜。うどんのみ。その餘は江戸人の口にあはず」と些か渋々ながらもその風味を称え、同時代の漢詩人柏木如亭(1762~1819)は美食詩集『詩本草』中の「京の名品」段で、「水菜・蕪菁(かぶら)・腐皮(ゆば)・麪筋(ふ)の妙選」と称賛を惜しまず、また同時期に京都で活躍した狂詩家、銅脈先生こと觀斎畠中正盈(1752~1801)も、

  • 従生小麦樽。 分散麩家臻。
  • 水責揉揚劇。 酒煎煮瀾頻。
  • 名施土佐字。 味憶丸山身。
  • 維昔京都住。 踏塩田舎巡。

京麩の伝習

という詩を遺しました。
そして気候不順等による飢饉が多発する天明年間(1781~88)以降は、保存食としての乾物食品需要の高まりにつれ、乾麩すなわち焼麩が次第に普及・浸透し始め、天保年間(1830~43)頃には、従来の生麩とともに、京都で造られる上質の麩が「京麩」として人口に膾炙するようになり(『往古噺の魁』等)、京名物に不可欠の一品としての評価が定まり、現在に至っています。

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